語学


ゴルゴ13のように何カ国語も訛りを含めて自由に操りたい

人と人のコミュニケーション手段は言語です。手話も言語に入れましょう。この言語から思想が生まれます。ですから、言語の違いで微妙に思想に違いが現れる訳です。ウチの次男はスイスのインターナショナルスクールで4年目。英語が解らないと泣いていた小学生の時、「言葉は学問じゃなくコミュニケーション手段だよ」と偉そうに教えたのを今でも覚えています(笑)。で、その結果、今じゃ第一言語です。えっ?日本語じゃないのかって?残念ながら渡欧が早くて、英語の意味にあたる日本語が出てこない事が沢山あるんですよ。。やれやれ、これじゃあ留学の意味がないってもんですな。

日本語を正しく理解してこそ他言語だと、今さらながら気がつきました。その言語の背景にある思想が理解出来なければ比較も何もあったものではありません。それから他言語で思うのですが、他言語を正しく理解せずに言葉で感動したりは出来ませんね。感動は他の手段で心がゆさぶられれば感動します。しかし、言葉で感動させられるのはシャクに障ります。なぜならそれは言語を駆使した技術に見えて仕方がないからです。次男と同じ映画を英語のまま観ても、なかなか思うように感動できません。逆に日本語の世界で、感動させられるのは言語を駆使して難しい事ではないなと(笑)。言葉ではなく心で感じ、感動するのは大変な修業が必要な気がします。

と言う事はつまり、穿っているとの批判は受けますが、感動する事の大部分は言語の背景にある思想と思いや記憶が言葉によって導き出され、感情の一部としてオーバーラップするから感動するのかなと。最近こざかしい言葉が氾濫して、しかもあたかもそれこそが素敵な権利であるかの風潮で、いかに自分で感動できるかなんて、本当に心が動いている事ではないのではないかと。

少ない言葉でもとめどなく涙する事の出来る俳句や短歌の世界は、こざかしい言葉の数々を否定しているようで。短歌の歌集発売を目前に控え病魔に倒れたカフカ的K氏の「聴覚を超えた短い言葉の感動」は、気持ちを高揚させテンションを上げるオウム真理教の説教のごとくの説話講和的感動とは、全く次元の違う、そう、ビッグバンの内側にいるのか外側にいるのかの言葉(注:難解)。。。
カフカ的K氏と感動を共有する為に、幾度となく文書や会話で言葉を重ねたから、ジャケット撮影の朝焼けの中での言葉を交わさない感動があると思う。

フランス語は数を数えられない訴訟は、どうでもいいのだけれど(笑)敗訴はあたり前。で、次男に聞いた。フランス語習って1年。フランス語って数のかぞえ方が変だと言うがどうなの?
「すっげー、変」なるほど。。これが正式なコメントでしょうね(笑)。変なものは変。

Posted: 土 - 9月 13, 2008 at 12:48 午前        




©