純粋まっすぐ正義君の強さ
核問題の議論が幼稚ではないか
昨晩、久しぶりに出席したある会議でふと思ったことがあるんです。
世の中には非常に強い人たちがいる。特にリベラルなサヨクな人々の中にはそれこそが世界の正義だと言わんばかりの強い人たちがいる。だからそれが度を超すと、民族や社会を否定した相互扶助コミュニティでの世界平和や核廃絶が大前提となるアナキズムとなるわけだ。この徹底した強い自由至上社会主義とでも言うべき人権派個人主義は、非常に賢く強い人でなければ考えることさえ出来ない。
世の中の多くの人は、弱い。ある意味弱さを持っているから社会に従属し、従属するためのルールやモラルを遵守する。国家間のルールの基盤は友愛や和平ではなく、自国の国益を優先させるエゴイズムであることは否定できない。その最たる物が核保有のエゴイズムであり、本当にそれを使うか否かの愚行はさておき、保有することで世界の「もって良い国」と同等に話をする機会を得る力の均衡としての存在は非常に大きいと、まさに「パキスタン」が「北」が実証している。
米国の軍需産業は「もって良い国」の上に成り立つが、世界の純粋まっすぐ君の矛先をかわすために、反核運動に対して極秘で相当の資金を流しているだろうという噂は絶えない。これは我が日本ではどうかというと、核保有の議論さえ猛反対される左翼国家である。議論さえしていれば近隣に対するかなりの抑止に繋がることは間違いないのだけれど、米国の核の傘の下での議論は日米間の安全保障にも悪影響が出るという左翼的詭弁でうやむやになるのが常なのだ。ならばと考えたのが世界的な核燃サイクル事業だろう。我が青森県は胸元に、非常にやばいこの国家プロジェクトを抱え込むことになる。プルトニウム生成などお手の物だという既成事実を国家戦略の背景に、なんとな~くにおわせておくことで、強国間の外交問題に対応しようとしているのは間違いない。というか、それが国家戦略だろう。
しかし、そのことが、本当にまじめに核廃絶の世の中を夢見て活動している賢く賢明な人たちに与える悪影響として心配される。核を背景にした左翼的道化となりはしないだろうか。怪しいサヨクな自称市民団体などと同列で活動することで、その賢さは無駄になっていることを大いに危惧する。力強い科学者、学識経験者が目先の核の危険性をどんなに声高に言ったとしても、国家戦略の背景にある核保有論を議論しないことには、あるいは核事態を持つことを容認しなければ、その声は無意味になる。その理由は、図らずも「冷戦」の核保有緊張状態から来たしたたかな平和であることは間違いないからだ。
Posted: 金 - 9月 25, 2009 at 08:36 午後