箱根駅伝と日本人
必死な生き様は人の心を動かす
当たり前のように駅伝を見ておりました。買い物の合間でもカーナビのテレビで見ておりました。胸をすくような快走も、必死の形相での力走も、自分になかなか出来ないことを代わりにしてもらっているようで、感動するわけです。この駅伝、実はアメリカンな外国人は苦手だとか。誰か一人でも棄権すると(数々のドラマがありましたよね)無念のたすき無しでの走りになり順位は関係なくなるわけで、これは城西大の選手じゃないけれど、その後一時期生活が荒れたようで、それも分かるような気がします。
自分との戦いで走るのならマラソンで結構。ところがこれは、自分との戦いであるばかりでなくあくまでもチームプレー。誰かのミスは必ず全体のミスに繋がります。過酷です。失敗したらまず自分を攻めるでしょう。で、仲間は「いいよいいよ、気にするな」と言っても血のにじむ様な練習が、一人のミスで無駄になった切なさと悔しさで、涙せずには居られないでしょう。個人主義の西洋にはあまり向かない競技であるゆえんですか。許す許容する美徳の血が、私たちの体には確実に流れています。自分のためだけに頑張ったのではない美しさですね。
診療室である患者さんとこんな会話をしました。時々こんな事を仰る方がいるのです。昔、非常に高い保険料を払っていた。そのときは病気もしなかったしケガをして病院の世話になるようなこともなかった。心底毎月引かれる保険料がもったいないと思った。今リタイアしてたいした収入もない。この間大病をして驚いた。大変なお金が自分にかかっていることが分かった。あのとき払っていた保険料が今自分に返ってきたと思う。。。云々。
こう思う方って少なからず居るんです。でも、ここには大きな間違いがありますよね。
元気な人が病気の人を助ける。ただこれだけです。払った保険料が返って来たなんて、殺伐としています。そうじゃなくて、当時あなたは元気だった。そして、そのとき病気だった人の医療費を払ってあげていた。今あなたは病気をした。周りの元気な人があなたの医療費を払ってくれた。人は自分だけではなく、誰かのために生かされているんだという考え方こそ、私たち日本人が今一番失いかけている事かもしれませんね。
箱根の駅伝も、チームのために自己を否定して走っているんだと言うことでしょう。正月にぴったりの競技です。
Posted: 月 - 1月 4, 2010 at 05:29 午後